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【長岡春太郎について】 『昭和北陸名鑑』に掲載されている眼科医の長岡春太郎氏は、『金沢商工人名録 昭和3年版』に「金沢市旅人宿業組合 組合長」として掲載されている長岡春太郎と同一人物なのかどうかが知りたい。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:57)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:57)
『昭和北陸名鑑』(11905291)p.53「長岡春太郎」によると、住所は「羽咋郡志雄村字子浦」と記されているが「西町三番丁に独立して長岡眼科院を設立今日に至る」とあり、昭和3年の時点で金沢に居住していたことがわかる。『金沢商工人名録 昭和3年版』(119503114)p.270によると、金沢市旅人宿業組合の住所は「上松原町源園内」と記されている。同p.35によると、源園の経営者は「源愛」という人物であり、組合長と異なる。金沢市旅人宿業組合の事務所が源園にあったことを意味すると思われる。長岡氏が眼科医であったことから、同じく眼科医の民俗学者、長岡博男氏との関係を推測し、『加能民俗』(11822476)編外二「長岡博男先生特集号」を確認したところ、p.839「月毎に火を改める習俗―長岡先生祖父翁の実家の伝承―」にて同家の出身も羽 ...
【養清寺について】 「金沢古蹟志」に記載のある「泉養清寺」の所在地は現在の何処にあたるのか。古地図などで確認できるか。また現在、辰己町にある「養清寺」は泉から移転したものなのか。これらのことを調べられる資料はないか。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:57)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:57)
『金沢古蹟志 第7編』巻18 p.42に「泉養清寺」の記載あり。○「泉養清寺」が現在のどこにあたるか。該当する地域の古地図がなく確認できなかったが、『金沢城下南部の歴史』(11920094)に養清寺について記載があった。詳細は以下のとおり。絵図では、『金沢市史 資料編18 絵図・地図』別刷17「金沢城下図」(延宝年間)、『金沢・北陸の城下町』(119952792)所収「金府大絵図」、『城下町金沢の人々』(119661481)所収「安政頃金沢町絵図」、『フォーラム・金沢』(11920317)付録「金沢城下町絵図」(天保2、3年)等を見たが、「養清寺」の記載は見当たらず。『ふるさと石川歴史館』(118377936)p.305「天保6年金沢城下絵図」及び『金沢市史 資料編18 絵図・地図』p.19「金沢城下絵図 文政13年」に泉村の家並が描かれているが、詳細は判読できなかった。文献 ...
日経テレコン、北國新聞データベースを検索したが、有用な情報は見つからなかったとのこと。その他文献及びデータベースで見つかった店名は以下のとおり。てらおか風舎(『金沢ランチ』(118499044)p.41)【URL】http://www.notoushi.com/ぶどうの木(都市農山漁村交流活性化機構「グリーン・ツーリズム」 http://www.kouryu.or.jp/gt/ による)【URL】http://www.budoo.co.jp/restaurant/index.htmlむっつぼし(六星、いしかわ農業総合支援機構ホームページ「石川県内の農家と農業法人」 http://inz.jpn.org/link/post-83.html による)【URL】http://www.rokusei.net/shop/五箇山農園食堂【URL】http://gokayama-nouen.com/農家食堂おくしんぼ(近松共同農園)【URL】http://chikamatsunouen.sakura.ne.jp/Life Community MEGLI【URL】https://www.facebook.com/Life-Community-MEGLI-12359138
かほく市ホームページ「「哲学の道」探訪 歩いてみよう!西田幾多郎ゆかりの地」によると、西田家は森区(旧河北郡森村)にあり、かつて西田家の屋敷があった場所には西田幾多郎出生地の石碑と説明板が建てられている。その内容は以下のとおり。「明治三年五月十九日、西田幾多郎博士は加賀藩の十村役を務めていた西田家の十二代目としてこの地に生まれました。敷地は、このあたりを中心に間口十三間、奥行二十間の約六百坪で、建物は約百四十坪の大屋敷でしたが博士が三歳の時に近火の類焼で焼失し、西田家はかほく市の向野地区(現在の宇野家駅前周辺)へ移転しました」【URL】http://www.city.kahoku.ishikawa.jp/www/02/201/001/000/index_783.html『西田幾多郎全集 第24巻』(112900829)p.279「年譜」に「1870(明治3)年 5月19日 加賀国河北郡森村(現在の石 ...
○花魁(おいらん)の定義『国史大辞典 2』(11022317)p.440「おいらん 花魁」によると、もと江戸吉原の高級遊女(上妓・太夫)を指したが、しだいに普通の遊女もおいらんと呼ぶようになった。○金沢における遊女の表記『三壺聞書』(118511630)p.180では「芸者」・「傾城」・「湯女」、p.190-191では「遊女」・「遊君」・「湯女」と表記されている。『芝居と茶屋町』(11824854)所収「両茶屋町一件」では「女」・「抱女」、「綿津屋政右衛門自記」(金沢俳優伝記)では「げいしや」・「茶屋女」・「ざしき女」・「女郎」・「ゆう女」・「しつぽくかよひ女」と表記されている。『加賀藩史料 第12編』(11801637)p.970では「茶屋女」・「女」と表記されている。『梅田日記』(118512950)では「芸者」(p.40,41,117)・「舞子」(p.41,117)・「遊女」(p.120)と表記されている。 ...
○近世『稿本金沢市史 風俗編第2』p.498-522「遊廓」、p.539-541「婦女」『石川県史 第2編』p.335【URL】https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/1700105100/1700105100100020?hid=ht020265p.492【URL】https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/1700105100/1700105100100020?hid=ht030142p.656-665【URL】https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/1700105100/1700105100100020?hid=ht040155『郷土シリーズ 2 世相史話』(昭和30年発行の復刻本)(119605375)p.167-188「金沢の花街-近世篇-」『金沢町人の世界』(11826084)p.110-112「茶屋廃業」『金沢市史 通史編2 近世』p.150-152『近代公娼制度の社会史的研究』(113369673)p.161-192「金沢の茶屋町」『加賀藩を考える』(118556187)p.214-263「芝居・遊郭・花火」『図説金沢の歴史』(109173982)p.104-105「芝居と茶屋町」「金沢俳優伝記」の図版(茶屋遊び、茶屋町の建物)、金沢芝居・茶屋町年表を掲載す ...
【山中温泉の芸妓の西茶屋への移動について】 山中温泉の芸妓が昭和初期の山中大火後に金沢の西茶屋に移ったということが書かれた文献はないか。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:56)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:56)
『石川県年表 昭和篇1』(11902807)によると、山中温泉で大火があったのは昭和6年5月7日である。北国新聞の昭和6年5月10日付2面の記事によると、芸妓の一部が山代・片山津に移ったと書かれている。同5月23日付2面の記事(「山中温泉復興座談会〔完〕情緒復興に芸妓再起は必要」)によると、山中温泉に芸妓は55名在籍していたが、大火により離散し、5月11日の時点で山代へ8名、芦原へ1名が移ったと書かれている。『石川県史 現代篇2』(119562465)p.659-660に「(加賀五温泉浴客の減少は)山中町の大火、その後の復興を一つの契機と」する旨が書かれている。『山中町史』(119562447)、『山中町史 現代編』(119496154)に山中大火による芸妓の移動に関する記述なし。『声魂 歌詞研究 〔第4年〕特輯号』(1931.8)(118563501)、『声魂 歌詞研究 〔第4年〕特輯号の2』(19 ...
【南京玉すだれの起源について】 南京玉すだれがいつ頃から金沢で行われていたかが知りたい。越中五箇山のこきりこが起源だと聞いている。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:56)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:56)
○越中五箇山のこきりことの関係『大道芸大全』(111961955)p.18-21「南京玉すだれ」によると、越中五箇山のこきりこで使用するささらが玉すだれに似ていること、こきりこの中に「編み竹踊り」(編み竹を使いしだれ柳や橋の形を創る)というものがあることから、越中五箇山のこきりこが南京玉すだれの源流とする。『日本絵巻大成 8 年中行事絵巻』(129387770)p.44-45「祇園御霊会」に、田楽法師たちが太鼓を放り投げたり、編木(びんざさら)を鳴らしている様子が描かれている。越中五箇山のこきりこがこうした芸能に淵源を持つことが予想される。○放下との関係『見世物研究』(129422726)p.9-12「放下」によると、放下師(室町時代の民間芸能者)の扱う道具の一つに「筑子」(コギリコ)があった。放下師はこれを打ち鳴らしたり、曲取りをした。『近 ...
【金沢(石川県下)のシンクロナイズドスイミングの歴史について】 金沢でシンクロナイズドスイミングができるのは、金沢スイミングクラブだけと聞いたが、他にできたところはないのか。シンクロの金沢(または石川県下)の歴史についても知りたい。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:56)
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「スポーツ石川のあゆみ」(119616744)p446に・第46回(平成3)国民大会が市営総合プールで開催・第45回(平成2)より国体でシンクロナイズドスイミングが正式種目となった・「シンクロナイズドスイミングが石川県に導入されて10年あまり」と記載がある。出版年が平成10年であることから、昭和63年前後に始まったと推察される。・日本スイミングクラブ協会ホームページのスイミングクラブマップで確認すると、石川県下でシンクロナイズドスイミングができるのは、金沢スイミングクラブ小立野教場だけであった。・同クラブは昭和63年オープンした。同クラブに問い合わせた結果、次のことがわかった。・シンクロナイズドスイミングの教室は、小立野教場開設以前に国体の3~4年前から市営総合プールで実施されていた。・国体後、ヴィテン ...
【金沢東別院について】 大正14年に建てられて昭和38年に火災にあった、金沢東別院の写真が見たい。(現在の写真ではない。)(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:56)
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○『20世紀の照像 石川写真百年・追想の図譜』(改編版)(118388152)p.140完成直後の本堂の写真掲載あり。「真宗大谷派金沢別院の本堂・1927年(昭和2)」によると、以前にも炎上していることがわかる。1876年(明治9)3月・・・炎上したあと、仮堂が建てられる(本格的な再建はなされず)。1914年(大正3)6月・・・起工、途中、法主大谷光演(句仏)の引退、新法主大谷光暢の限定相続問題をめぐる騒動で中絶期間もあり。1927年(昭和2)11月・・・13年半の歳月と150万円の巨費を投じて落成した。1962年(昭和37)7月・・・焼失した。○『金沢市要覧 〔昭和12年〕』(118309097)p.70写真掲載あり。「大谷派本願寺別院」によると、別の土地であるが、さらに前にも炎上していることがわかる。大谷派本願寺が金沢に別院を創造した年月日は詳でない。初め金沢城の西北後 ...
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