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『加越能寺社由来 下巻』(118355320)p.441「徳願寺」『加能郷土辞彙』(改訂増補)p.624「徳願寺 河北郡津幡に在つて、真宗東派に属する」『津幡町史』(119563613)p.515「〔寺院名〕徳願寺 〔宗派〕真宗大谷派 〔住所〕加賀爪」『石川県河北郡誌』(11824575)p.359「徳願寺。字加賀爪にあり。真宗大谷派にして飛擔地とす。文明中僧了玄之を字津幡に建立せしが、元和中今の所に移るといふ」『河北潟総合研究 第10巻』(119970638)p.20
【金沢城絵図について】 金沢城絵図という資料(金沢御堂・金沢城調査委員会製作)がポスターとして町中の施設に掲示されていたのだが、見ることはできないか。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:55)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:55)
当館に所蔵なし。石川県立図書館に所蔵あり。原図は成巽閣が所蔵している。【URL】http://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I017911180-00『金沢御堂・金沢城調査報告書 文献史料編 Ⅰ-1 金沢城史料編』(109077350)p172(番号268)、『金沢市史 資料編18 絵図・地図』p.84に資料名の記載あり。図版は掲載されていない。『よみがえる金沢城』1・2、『金沢城を探る』(金沢城調査研究パンフレット)、『絵図でみる金沢城』(109085834)、『金沢城』(119477874)等の図録・パンフレット類に成巽閣所蔵の金沢城絵図の図版掲載なし。
【平和町にあった墓地について】 平和町の金大附属小中学校・高校の場所にあった墓地についての情報が知りたい。(浄土真宗寺院のそばの共同墓地で、現在は区画整理によりなくなっているとのこと。)(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:54)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:54)
墓地を整理した年代ははっきりしないが、金大附属の学校が建てられる以前ではないかとのこと。付属高校が現在地に移転したのは昭和25年である(同校ホームページ「沿革」による)。【URL】http://partner.ed.kanazawa-u.ac.jp/kfshs/intro/history.html『金沢市詳細図 昭和38年版』(118407249の)平和町付近に墓地なし。向い側(野田町チ386)の九万坊裏手に墓地があるが、これは現存しており、かつ真宗寺院ではない(『加能郷土辞彙』(初版)p.271「黒壁山」)ことから、合致しない。『平和町開町四〇周年記念誌』(118573553)p.64「昭和5年頃の平和町附近の図」の、現在金大附属小中学校・高校が建っている場所は「歩兵第三十五連隊」「作業場」「騎兵第九連隊」と書かれている。墓地・寺院は描かれていない。同書p.39記載「十一屋町の孝真寺」の宗派は浄土真宗であ ...
【三文豪の像について】 白鳥路にある三文豪の像と、図書館にある像について、それぞれいつごろ設置されたか経緯を知りたい。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:54)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:54)
『北國新聞縮刷版 No.235 昭和60年10月号』(119898446)p.717 10月22日17面「三文豪のブロンズ像完成 白鳥路で28日除幕」金沢市が同市外濠(そとぼり)公園白鳥路に千五百万円をかけて設置する同市出身の三文豪・徳田秋声、泉鏡花、室生犀星のブロンズ像が完成し二十二日午後、白鳥路中ほどの文豪像ゾーンに据え付けられる。三文豪の親族と連絡を取り合いながら写真、肖像画などの参考資料と親族の助言で八月に原型を完成させ、その後高岡市内で鋳造と仕上げが行われていた。秋声、鏡花像は鏡花の自宅に秋声が訪ねるという設定で制作されている。p.920 10月28日夕刊6面「三文豪再び故郷に立つ」『北國新聞縮刷版 No.236 昭和60年11月号』(119898455)p.881 11月29日 17面「市立図書館にも三文豪像 白鳥路の原型を保存」先月、白鳥路に設置された三文豪像 ...
【石置き屋根について】 金沢の昔の住宅で、板葺に石を置いた屋根について書かれた資料はないか。野町の森家住宅で使われていた。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:54)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:54)
『金沢市史 資料編17 建築・建設』(119623121)p.158「町家の屋根は、もともと板葺き石置き屋根であった。(中略)明治中期になって、しみこまない黒い釉薬のかかった瓦が一般的になり、瓦葺きが普及し始めた。そして、明治37年(1904)、防火を目的とした「石川県家屋制限令」によって、板葺き石置き屋根が禁止され、瓦葺きに改めるようにされた。条例では板葺き屋根は禁止されたが、現実には新築の家に適用されただけで、昭和30年代まで板葺き屋根はいたる所に残っていた」p.149「旧山形家」(武士住宅において板葺き石置き屋根が残っていた唯一の家)p.168「旧松下家住宅」(表構えは板葺き石置き屋根、立面図あり)p.171「森紙店」(現在も板葺き石置き屋根、立面図あり)p.174「旧山川家住宅」(屋根は板葺き、立面図あり)『金沢市文化財紀要 57 金 ...
【井高帰山の金沢での足跡について】 陶芸家、井高帰山(友田安清の娘婿)が金沢に居住していた時期の足跡がわかる資料はないか。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:54)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:54)
井高帰山の略歴『美術家人名事典 工芸篇』(113083943)p.31『角川日本陶磁大辞典』(113163365)p.84『目の眼 1987年7月号』(109009921)p.57『明治の装飾工芸』(129774836)p.137-138これら資料によると、井高帰山は明治41年に金沢の日本硬質陶器に技師として招かれ、併せて義父の興した友田組にも入ったが、大正9年に東京の目黒に転出しており、その間の足跡は書かれていない。『日本硬質陶器の歩み』(119564058)に井高帰山の記載なし。『九谷焼330年』(119118033)、『陶器講座』(119557240)、『金沢の焼物』(119377707)等、郷土の陶磁文献に井高帰山の記載なし。
『史料が語る三井のあゆみ』(113378636)p.18「連家 松阪家二代・高邁(則右衛門)」(高邁についてはp.102「三井家略系図」に記載あり、初代は孝賢)『三井高利』(11098608)付図「三井家初期略系図」(松阪南家の初代はみね、養子孝賢の妻)『国史大辞典 13』(111316901)p.353-354「三井家」(松阪南家初代孝賢、二代高邁)『三井財閥の人びと』(112490391)p.33「表2・5 三井各家の持分率の変遷」(則右衛門孝賢)『三井財閥とその時代』(113103803)p.79「京紅店(絹織物の染色加工・越後屋則右衛門)」「松阪店(松阪木綿仕入・三井則右衛門)」、p.460-「松阪三井家」、p.562-678「三井家発祥の地松阪と松阪三井家」
『城下の百姿 上』(118290010)『城下の百姿 下』(109177097)『かなざわ名妓の栞』(118578916)『観光の金沢 第2号』(118586810)『観光の金沢 第3号』(118586829)『観光の金沢 第5号』(118586838)『観光の金沢 第6号』(118586847)『観光の金沢 第7号』(118586856)『観光の金沢 第8号』(118586865)
【金沢新報について】 「金沢新報」という新聞がみたい。『クララの明治日記』によると、明治11年10月12日の記事に、お雇い外国人のホイットニーが北陸巡幸中の明治天皇の前で化学の実験をしたと書かれている。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:53)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:53)
『クララの明治日記 下』(411492406)p.63「ウィリイは陛下に紹介され、陛下の前で化学や物理の実験をいくつかお目にかけ、また盗難警報器をお見せした。ミカドは大いにご満足の意を表され」たと書かれている。『石川県史 第4編』p.1319-1334「新聞紙の発達」、『図説石川県の歴史』(11103369)p.258-259「明治・大正期の石川県の新聞」に「金沢新報」の記載なし。明治11年に発刊されていた新聞に「石川新聞」があり、石川県立図書館に所蔵がある。『明治行幸史料』(118405155)p.8、『明治天皇北陸巡幸誌』(118404944)p.地35、『鳳輦の光 御旛の湿』(118581493)p.56-57によると、明治天皇がホイットニーらの奉迎する中学師範学校へ臨御したのは明治11年10月3日のことである。『実録石川県史』(119866451)p.48「金沢三会社視察記」中学師範学校と同じ日に視察した ...
【金沢の洋食文化の歴史について】 金沢の洋食文化の歴史について明治時代にどのような店があったか知りたい。ハントンライスについても由来が知りたい。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:53)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:53)
・『金沢市史 現代篇 下』p1035「洋食の普及」初めて開業したのは明治10年(1877)兼六園内の酔紅館。28年(1895)一関亭で西洋料理と和料理を折衷した料理を出す。・『金沢商工人名録 昭和3年版』p38・40ト一亭、自由軒、太陽軒など明治、大正創業の店がわかる。・『金沢』No.12(179018668)巻頭特集「懐かしの洋食」p29~33「懐かしの味に出会える洋食屋」自由軒・グリル中村屋・北極・グリルオーツカ等、現在も営業している洋食屋の記載がある。自由軒以外はほぼ昭和30年代の創業である。ハントンライスの本家として、グリルニュージャーマンを紹介する。p18・19「ハントンライス」ハントンライスの歴史についての記事あり。・『金沢』No.71(170417920)巻頭特集「愛しの洋食」50年以上定番のメニューを紹介する。・「北国新聞」2006年3月4日p41 ...
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