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日経テレコン、北國新聞データベースを検索したが、有用な情報は見つからなかったとのこと。その他文献及びデータベースで見つかった店名は以下のとおり。てらおか風舎(『金沢ランチ』(118499044)p.41)【URL】http://www.notoushi.com/ぶどうの木(都市農山漁村交流活性化機構「グリーン・ツーリズム」 http://www.kouryu.or.jp/gt/ による)【URL】http://www.budoo.co.jp/restaurant/index.htmlむっつぼし(六星、いしかわ農業総合支援機構ホームページ「石川県内の農家と農業法人」 http://inz.jpn.org/link/post-83.html による)【URL】http://www.rokusei.net/shop/五箇山農園食堂【URL】http://gokayama-nouen.com/農家食堂おくしんぼ(近松共同農園)【URL】http://chikamatsunouen.sakura.ne.jp/Life Community MEGLI【URL】https://www.facebook.com/Life-Community-MEGLI-12359138
かほく市ホームページ「「哲学の道」探訪 歩いてみよう!西田幾多郎ゆかりの地」によると、西田家は森区(旧河北郡森村)にあり、かつて西田家の屋敷があった場所には西田幾多郎出生地の石碑と説明板が建てられている。その内容は以下のとおり。「明治三年五月十九日、西田幾多郎博士は加賀藩の十村役を務めていた西田家の十二代目としてこの地に生まれました。敷地は、このあたりを中心に間口十三間、奥行二十間の約六百坪で、建物は約百四十坪の大屋敷でしたが博士が三歳の時に近火の類焼で焼失し、西田家はかほく市の向野地区(現在の宇野家駅前周辺)へ移転しました」【URL】http://www.city.kahoku.ishikawa.jp/www/02/201/001/000/index_783.html『西田幾多郎全集 第24巻』(112900829)p.279「年譜」に「1870(明治3)年 5月19日 加賀国河北郡森村(現在の石 ...
○花魁(おいらん)の定義『国史大辞典 2』(11022317)p.440「おいらん 花魁」によると、もと江戸吉原の高級遊女(上妓・太夫)を指したが、しだいに普通の遊女もおいらんと呼ぶようになった。○金沢における遊女の表記『三壺聞書』(118511630)p.180では「芸者」・「傾城」・「湯女」、p.190-191では「遊女」・「遊君」・「湯女」と表記されている。『芝居と茶屋町』(11824854)所収「両茶屋町一件」では「女」・「抱女」、「綿津屋政右衛門自記」(金沢俳優伝記)では「げいしや」・「茶屋女」・「ざしき女」・「女郎」・「ゆう女」・「しつぽくかよひ女」と表記されている。『加賀藩史料 第12編』(11801637)p.970では「茶屋女」・「女」と表記されている。『梅田日記』(118512950)では「芸者」(p.40,41,117)・「舞子」(p.41,117)・「遊女」(p.120)と表記されている。 ...
○近世『稿本金沢市史 風俗編第2』p.498-522「遊廓」、p.539-541「婦女」『石川県史 第2編』p.335【URL】https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/1700105100/1700105100100020?hid=ht020265p.492【URL】https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/1700105100/1700105100100020?hid=ht030142p.656-665【URL】https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/1700105100/1700105100100020?hid=ht040155『郷土シリーズ 2 世相史話』(昭和30年発行の復刻本)(119605375)p.167-188「金沢の花街-近世篇-」『金沢町人の世界』(11826084)p.110-112「茶屋廃業」『金沢市史 通史編2 近世』p.150-152『近代公娼制度の社会史的研究』(113369673)p.161-192「金沢の茶屋町」『加賀藩を考える』(118556187)p.214-263「芝居・遊郭・花火」『図説金沢の歴史』(109173982)p.104-105「芝居と茶屋町」「金沢俳優伝記」の図版(茶屋遊び、茶屋町の建物)、金沢芝居・茶屋町年表を掲載す ...
【山中温泉の芸妓の西茶屋への移動について】 山中温泉の芸妓が昭和初期の山中大火後に金沢の西茶屋に移ったということが書かれた文献はないか。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:56)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:56)
『石川県年表 昭和篇1』(11902807)によると、山中温泉で大火があったのは昭和6年5月7日である。北国新聞の昭和6年5月10日付2面の記事によると、芸妓の一部が山代・片山津に移ったと書かれている。同5月23日付2面の記事(「山中温泉復興座談会〔完〕情緒復興に芸妓再起は必要」)によると、山中温泉に芸妓は55名在籍していたが、大火により離散し、5月11日の時点で山代へ8名、芦原へ1名が移ったと書かれている。『石川県史 現代篇2』(119562465)p.659-660に「(加賀五温泉浴客の減少は)山中町の大火、その後の復興を一つの契機と」する旨が書かれている。『山中町史』(119562447)、『山中町史 現代編』(119496154)に山中大火による芸妓の移動に関する記述なし。『声魂 歌詞研究 〔第4年〕特輯号』(1931.8)(118563501)、『声魂 歌詞研究 〔第4年〕特輯号の2』(19 ...
【南京玉すだれの起源について】 南京玉すだれがいつ頃から金沢で行われていたかが知りたい。越中五箇山のこきりこが起源だと聞いている。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:56)
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○越中五箇山のこきりことの関係『大道芸大全』(111961955)p.18-21「南京玉すだれ」によると、越中五箇山のこきりこで使用するささらが玉すだれに似ていること、こきりこの中に「編み竹踊り」(編み竹を使いしだれ柳や橋の形を創る)というものがあることから、越中五箇山のこきりこが南京玉すだれの源流とする。『日本絵巻大成 8 年中行事絵巻』(129387770)p.44-45「祇園御霊会」に、田楽法師たちが太鼓を放り投げたり、編木(びんざさら)を鳴らしている様子が描かれている。越中五箇山のこきりこがこうした芸能に淵源を持つことが予想される。○放下との関係『見世物研究』(129422726)p.9-12「放下」によると、放下師(室町時代の民間芸能者)の扱う道具の一つに「筑子」(コギリコ)があった。放下師はこれを打ち鳴らしたり、曲取りをした。『近 ...
【金沢(石川県下)のシンクロナイズドスイミングの歴史について】 金沢でシンクロナイズドスイミングができるのは、金沢スイミングクラブだけと聞いたが、他にできたところはないのか。シンクロの金沢(または石川県下)の歴史についても知りたい。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:56)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:56)
「スポーツ石川のあゆみ」(119616744)p446に・第46回(平成3)国民大会が市営総合プールで開催・第45回(平成2)より国体でシンクロナイズドスイミングが正式種目となった・「シンクロナイズドスイミングが石川県に導入されて10年あまり」と記載がある。出版年が平成10年であることから、昭和63年前後に始まったと推察される。・日本スイミングクラブ協会ホームページのスイミングクラブマップで確認すると、石川県下でシンクロナイズドスイミングができるのは、金沢スイミングクラブ小立野教場だけであった。・同クラブは昭和63年オープンした。同クラブに問い合わせた結果、次のことがわかった。・シンクロナイズドスイミングの教室は、小立野教場開設以前に国体の3~4年前から市営総合プールで実施されていた。・国体後、ヴィテン ...
【金沢東別院について】 大正14年に建てられて昭和38年に火災にあった、金沢東別院の写真が見たい。(現在の写真ではない。)(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:56)
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○『20世紀の照像 石川写真百年・追想の図譜』(改編版)(118388152)p.140完成直後の本堂の写真掲載あり。「真宗大谷派金沢別院の本堂・1927年(昭和2)」によると、以前にも炎上していることがわかる。1876年(明治9)3月・・・炎上したあと、仮堂が建てられる(本格的な再建はなされず)。1914年(大正3)6月・・・起工、途中、法主大谷光演(句仏)の引退、新法主大谷光暢の限定相続問題をめぐる騒動で中絶期間もあり。1927年(昭和2)11月・・・13年半の歳月と150万円の巨費を投じて落成した。1962年(昭和37)7月・・・焼失した。○『金沢市要覧 〔昭和12年〕』(118309097)p.70写真掲載あり。「大谷派本願寺別院」によると、別の土地であるが、さらに前にも炎上していることがわかる。大谷派本願寺が金沢に別院を創造した年月日は詳でない。初め金沢城の西北後 ...
【前田利家時代の前田家家臣について】 前田利家が「府中三人衆」と呼ばれていた時代の家臣のうち、大音帯刀、大井久兵衛の履歴、七尾在城時の役職がわかる資料はないか。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:31:55)
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『加賀市史料 2 大聖寺藩士由緒帳 1』(11911202)p.260「由緒帳 大井 要人」『加賀藩史料 第2編』p.779「大音主馬厚用没す」『加賀藩初期の侍帳』p.3「大音藤蔵」(天正三年越前府中侍帳)、p.7「一、弐百五拾石 大井主馬」(慶長十年富山侍帳)、p.28「能州 一、千弐百五拾石 三拾七人五分 大井久兵衛」(慶長之侍帳)、p.50「一、四千石(千石加禄)大音主馬」(元和之侍帳)、p.89「一、四千石 加千石 大音主馬」(寛永四年侍帳)、p.149「五千石 内三百石与力 大音主馬」(寛文元年侍帳)、p.190「一、五千石 内三百石 与力知二人(長病人)大音主馬」、p.198「一、五千石 人持組 内三百石 与力 大音主馬」(寛文十一年侍帳)『石川県史資料 近世篇9 諸士系譜 2』(109108993)④p.16「大音氏」(初代大井久兵衛)『加能郷土辞彙』(改訂増補)p.122「大音厚用」、p.146「大井主馬」・ ...
『角川日本地名大辞典 17 石川県』p.852「水島村」「水島」 はじめ比楽島村、昭和9年からは石川村の大字、昭和29年松任町の町名『石川県石川郡誌』(「石川県石川郡自治協会」昭和2年刊の復刻) p.593-606「比楽島村」(水島、番田、源兵衛島、上安田、福永、運上島の6字からなる)『石川村の歴史』(118586749)p.105-112「宿場で栄えた水島」『水島町誌』(118588387)
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