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【加賀藩本郷邸前にあった和菓子屋について】 東京の本郷にあった和菓子屋藤むらと加賀前田家の関わりを示す資料をみたい。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:30)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:30)
以下の資料に記載がある。『和菓子の辞典』(11051524)p.288~289『日本名菓辞典』(11805116)p.305~306『和菓子』(129058923)p.103『加賀百万石ゆかりの菓子』(119754590)p.40大意は以下の通りである。・秀吉が聚楽第で催した茶会で自慢してきた駿河屋の羊羹に対抗して、前田利家が¬ト(かねと)屋忠左衛門に羊羹作りを命じる。・羊羹はその後前田利常の時代に開発に成功。忠左衛門は浅香姓(のち藤村に改姓)と帯刀を許される。・藤むらは宝暦年間に、本郷の加賀前田家江戸藩邸前に移転。以下の資料に前田利家と聚楽第関連の逸話が載せられているが、羊羹に関する逸話は確認されなかった。『加賀藩史料 第1編』(11801624)『三壷聞書』(118511630)『御夜話集 上編』(118511603)『金沢古蹟志 第11編』(119865973)巻三十p.34に元和・寛永時代の藤村忠左衛門という ...
【相撲場について】 金石の日和山下、涛々園(とうとうえん)、平和町で学生相撲の大会が行われたときの相撲場の場所が載っている地図が見たい。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:30)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:30)
地図上に相撲場の記載のある地図は確認できなかったが、相撲場のある施設等の配置図などで、相撲場の位置を確認できる。なお、相撲場の変遷は『相撲王国石川のあゆみ』(11913777)p.61~「金沢大会の歴史」で把握できる。大正4年~:日和山下大正15年~:涛々園下昭和21年:日和山下昭和21~26年:涛々園下昭和27~28年:平和台『平和町開町四〇周年記念誌』(118573553)に「平和町町内略図」があり、昭和30年の略図に「相撲場」が記載されている。周辺の街路構造も把握できる。『追憶 昔の金石とその周辺』(109069803)p.2の手書き地図に、涛々園下の海水浴場付近に「仮設学生相撲場」が記されている。p.59~66にかけて学生相撲大会に関する記述がある。「金石バッス計画配置図」(近世史料館特36.14-02)に涛々園の配置計画図があり、「角力場」 ...
『創立百年記念誌もろ江』(119811945)学校の創立100周年記念誌。学校のあゆみについて書かれている。『弓取郷土史』(109068495)p.66~「小学校教育の変遷」に、前身校含めた沿革が記されている。『伸びゆく諸江』(109068815)p.43~「学校のうつりかわり」に、諸江町小学校の変遷に関する記述がある。『石川県石川郡誌』(11824573)p.1215「旧弓取村」の「教育」の項目に、小学校に関する記述がある。『金沢市校下誌 西部地区編』(109205988)p.15の年表に、新校舎の完成年が記されている。
【金沢市北部地域の昔の人口について】 昭和20年代後半~昭和30年頃の金沢市の北部地域、とりわけ八田・才田・大場・忠縄の各地区の人口がわかる資料を見たい。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:29)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:29)
統計資料を調査したが、各地区ごとの人口まではわからなかった。『国勢調査結果 昭和30年』(119933400)は、地域別(校区別)の人口まで把握可能。『金沢市統計書 昭和30年版』(119505137)も、地域別(旧町村別)の人口まで把握可能。『石川県統計書 昭和30年』(11916182)は、市町村別の人口まで把握可能。昭和40年まで下ると、『金沢市統計書 昭和40年版』(119505235)で、町丁別の人口を知ることができる。各地域の歴史をまとめた資料を調査した。一部の地域については、以下の資料に昭和20年代後半~昭和30年の人口が記されていた。『八田の歴史』(109068593)p.15~16に八田の家数・人口がまとめられている。『大庭のあゆみ』(119377879)p.118~119に大場村の人口変化の表がある。
【明治44年の百間堀埋立工事について】 明治44年に行われた百間堀の埋立工事について工法やどのように水を抜いたか、苦労話等について知りたい。特に兼六園側に造った瓦の玉石を用いた土割の石積みについて知りたい。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:29)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:29)
金沢城関係の資料を調べたところ、水を抜いた方法については『金沢城跡 車橋門発掘調査報告書』(119590325)p20に「百間堀の水を抜く時は、その水をいもり堀に流すしかなく、堀の埋立てが道路開削に連動しているのである。」との記載があることから、百間堀の水を抜く際はいもり堀に流したことが判明した。 工法等については、金沢城関係の各種発掘調査報告書に記載なし。 『よみがえる金沢城 1』(119950125)、『よみがえる金沢城 2』(118512478)を調べるも記載なし。 『20世紀の照像 石川写真百年・追想の図譜』(118388161)を調べたところ、明治44年(1911)6月に道路が開通したことがわかったので、当時の北国新聞を調べるも、工法等の記載はなし。
シタベニハゴロモは外来種の昆虫で、日本では2009年に石川県小松市で初めて確認された。『昆虫 ニューシリーズ』16巻1号「石川県におけるシタベニハゴロモの生態」に、シタベニハゴロモの特徴、生態等について述べられている。(J-STAGEで閲覧可能)【URL】https://www.jstage.jst.go.jp/article/kontyu/16/1/16_KJ00009573822/_pdf/-char/ja (2021年10月29日最終閲覧)石川むしの会が発行している『とっくりばち』という会誌では、近年石川県エリアのシタベニハゴロモの生息域等に関する論文が多く掲載されている。『昆虫レファレンス事典 3』(113885137)p.287「シタベニハゴロモ」によると、以下の資料にシタベニハゴロモの記載があることが確認できる。『くらべてわかる昆虫』(113589980)p.51画像が紹介されている。「中国原産で石川県に定着。」とある。『世界のふし ...
・『角川日本地名大辞典 17 石川県』(118552562)で町名の変遷を確認。昭和45年に尾張町2丁目に変更されたことがわかった。・『金沢市住宅地図 昭和44年度版』(118407507)で、住所を確認。新旧町名が両方記載されていた。・最新版の『金沢市住宅地図 地籍版』にて、場所と住居表示、地番を確定できた。
【永原甚七郎の出生について】 幕末の加賀藩士永原甚七郎の出生地が加賀国の竹松村であるとの話を聞いたが、それに関する資料はないか。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:29)
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『加能郷土辞彙』(改訂増補)(119865516)、『金沢墓誌』(118582759)等、甚七郎の経歴を簡潔にまとめたものには、出生に関する記述なし。『諸士系譜』にも出生に関する記載なし。『加賀文化』(11824321)第3号「永原甚七郎外伝」p.8に「甚七郎は文化十年の生れ石川郡出城村字竹松の百姓與三右衛門方に養われ」た妾腹の子であるとの記述がある。典拠は示されていない。『石川郷土史学会々誌 第41号』(109085217)p.103~「一橋慶喜と永原甚七郎」には、出生に関する記述はないが、甚七郎の「先祖由緒并一類附帳」や「赤座甚七郎家系等略記」などの史料があることが確認された。近世史料館で上記史料を確認したが、甚七郎が竹松の出生であるとの記載はなかった。
『石川県史史料 近代編(2)』(119562939)p.464 加賀國石川郡水淵村 物産の項に「楮皮」「元結紙」「小厚紙」「島笠紙」の記述あり。『日本歴史地名大系17 石川県の地名』(118287258)p.503 水淵村の項に 「おそくとも元禄期には紙漉きが盛んになり、ちり紙などを生産していた」と記述あり。その他、以下の資料でも、水淵で紙漉きが行われていたことが確認できる。『金沢市史 資料編10 近世8』(119795743)p.162『金沢市史 通史編2 近世』(119896540)p.774『石川県の伝統産業』(118413040)p.265~296「石川の和紙」『加賀の紙』(11824957)p.16~25「近世紙郷の分布」、「医王山麓の紙郷」『石川県石川郡誌』(11824573)p.1065『加藩貨幣録』(11824808)p.183、186、192によると、19世紀の加賀藩の藩札の銀札は楮(こうぞ)で作られていたことがわかる。水淵には、土地の産物と ...
【「水淵」について】 金沢市の地名に「水淵」がある。ここには辰巳用水のかつての取水口があるが、そのことがわかる資料を探している。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:28)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:33:28)
『辰巳用水にみる先人の匠』(119416725)p73 辰巳用水は初め「雉」を取入口として造られた。『金沢用水散歩』(118334901)p84 「もっとも当初の取水口は、下流の雉にあったというが、」p86 辰巳用水縦断図に雉(寛永期取入口)と記載あり。『辰巳用水 加賀藩政秘史』(11802059)p120 「通称”雉”の取入口付近は、昼なお暗い樹林で覆われ」『辰巳用水にみる近世初期の先端技術』(119746097)p14 図2-3 明治42年頃の主要道路と辰巳用水 に「水渕」の記載あり。p25 3-5 雉取入口周辺の水路 に記載あり。p41 写真3-1 雉取水口遠景 の写真あり。
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