リンク集 RSS/ATOM 記事
ホーム >>
リンク集 >>
RSS/ATOM 記事 (22942)
ここに表示されている RSS/ATOM 記事を RSS と ATOM で配信しています。



ここに表示されている RSS/ATOM 記事を RSS と ATOM で配信しています。



【竪町の古い写真について】 現在の竪町通りの写真(もと長崎屋のあった辺り)の写真を探している。古ければ古いほどいい。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:32:58)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:32:58)
〇戦前の写真について『金沢市写真帖』(11906744)、『目で見る金沢の100年』(119752610)等、金沢の古い写真を集めた資料を確認するも、竪町通りを写したものは確認されず。現在の竪町通りの入口付近を写した写真は『金沢絵葉書』(11826123)等で確認されるが、大通りを写しており、商店街の入口を正面から写したものは確認されず。『竪町三五〇年のあゆみ』(11913989)p.30に「昭和初期雪の竪町通り」、「戦時中の竪町通り」の写真があるが、竪町通りのどの辺りを写したものかは不明。〇戦後の写真について昭和20~30年代の写真については、写真を収録した資料が確認された。『石川の戦後50年』(118380029)p.34に、昭和28年頃の竪町商店街を写した写真が収められている。『写真が語る金沢市の130年』(118613256)p.94に昭和37年頃竪町商店街入口の写真が ...
蔵書検索システムで「土器」、「弥生」で資料を検索。『「縄文弥生から飛鳥奈良」を知る本』(113123575)p.34~35に「弥生土器」の項目があり、参考文献がまとめられている。当館所蔵の資料で、弥生土器の写真が収められているものとしては以下のものがある。なお、写真はほぼ白黒である。『日本原始美術 3 弥生式土器』(129347130)『日本の原始美術 3 弥生土器』(129380386)『陶磁大系 2 弥生』(129405126)冒頭一部にカラー写真が収録されている。写真は収録されていないが、図版や解説は詳細な資料。『弥生土器の知識』(11071281)『日本土器事典』(111783871)
【明治前期の石川県の人口について】 大石川県時代の石川県の人口は180万人ほどいて、日本で一番多かったと聞いているが、その数字の載っている資料はあるのか。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:32:58)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:32:58)
ここでいう「大石川県」とは、現在の富山県全域、福井県の一部も石川県に含まれていた時期のことを指す。石川県の県域の変遷については、『図説金沢の歴史』(109173982)p.115に記されている。同書によると、明治9年(1876)8月~明治14年(1881)1月が「大石川県」の時代になる。明治以降大正9年(1920)の国勢調査開始以前の人口統計については、以下の資料にまとめられている。速水融『歴史人口学の世界』(111818770)p.98~105同書に記載のある『国勢調査以前日本人口統計集成』は当館に所蔵なし。明治13年~『日本全国人口表』(明治15~19年は『日本全国戸口表』)が作成されていた旨が記されている。その他、同著者の以下の論文がインターネット上で公開されている。『日本研究 9号』「明治前期人口統計史年表」※日文研オープンアクセスで閲 ...
【昭和10年頃の塩屋町、白銀町の町並みについて】 昭和10年頃の旧塩屋町、旧白銀町の町並みがわかる写真や地図はないか。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:32:58)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:32:58)
特定の町家がいつから建っていたか調べたい。質問者自身で昭和30年頃に建っていたことまでは調べられたが、昭和10年頃にもあったか調べたい、とのこと。旧塩屋町は現在の瓢箪町、旧白銀町は現在の芳斉のあたりである。①塩屋町について『次代に語りつぐひょうたん物語』(119983396)p.115参考文献に10件ほどの文献の記載があり、その中の『ひさごのしらべ』(11900260)を紹介した。『ひさごのしらべ』(11900260)p.13に「塩屋町(瓢箪町)」についての記述があり、昭和5年に大火のため79戸が焼失し、その後次々と新しい家が建ち、町並みも新しく変わってきたという記載がある。また、p.28~29にも大火について詳しい記述あり。『瓢箪地区四十周年記念誌』(119611621)p.94~97に「塩屋町上組町会」や「塩屋町中組町会」など各町会について特徴や思 ...
『亀の尾の記』(11824824)の解説に「亀の尾の記は、金沢市内における町名由来、神社仏閣の来歴から藩士の系譜等、地誌というには内容が雑駁」と書かれていること。未完であること。校訂者日置謙が誤りを指摘していることなどを案内した。そのうえで、作者柴野美啓が文政8年(1825)家督を相続していること、弘化4年(1848)に没していることから、江戸後期に調査を行い執筆したと考えられるが、古くは、天平宝字8年(764)の記載もあり、記載されている範囲を特定することはできないと回答した。全文調査は行っていないので、国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧できることを案内し調査終了とした。調査資料『亀の尾の記』(11824824)『加能郷土辞彙』(改訂増補)(119865516)『石川県史 第3編』(118587399)
【素話が掲載されている図書について】 「エパミノンダスとおばさん」という話が載っている本を見たい。『おはなしのろうそく 1』(610003503)に掲載されている「エパミナンダス」ではない。また、上記以外にもサラ・ブライアントのおはなしが掲載されている本があれば見たい。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:32:58)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:32:58)
図書館システムのキーワード検索やインターネット検索では該当するものが見当たらなかった。質問者は昔話だと言っていたが、『おはなしのろうそく 1』(610003503)を確認すると「ブライアント 作」と表記があり、『民話・昔話集作品名総覧』(610003853)で該当する作品が掲載されていなかった。『お話のリスト』(638031136)p.20「エパミナンダス」の項目に「創作」とある。『アンソロジー内容総覧 児童文学』(610010787)の作品名索引から探すと、質問の作品名と一致する「えぱみのんだすとおばさん」を見つけることができ、p.314-315『世界の童話 2年生』(実業之日本社,1960)に掲載されていることがわかる。『おはなしのろうそく 1』(610003503)の「エパミナンダス」は松岡享子氏の訳だが、『世界の童話 2年生』の「えぱみのんだすとおばさん」は杉 ...
【涌波新村の新開に関わった百姓について】 1.寛永10年(1633)に、藩からの小立野台地新開の触に加賀国涌波村の百姓七人が呼応し、涌波新村に移り住んだと聞いているが、この七人の百姓の名前はわかるか。2.涌村という姓は全国に90人ほどの稀少な姓で、その9割が石川県に居住しているらしいが、姓の由来はわかるか。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:32:57)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:32:57)
〇1について質問者が紹介してきた事項は、『日本歴史地名大系 17 石川県 石川県の地名』(118287258)p.513の「涌波新村」の項にまとめられている。概要は以下の通り。・寛永9年の辰巳用水の開削後、藩により下小立野開墾計画が持ち上がる。・大桑村が開墾に応じなかったため、河北郡涌波村の百姓七名に開墾が命ぜられ、それぞれに1町歩の屋敷が与えられた。・涌波新村は一時期涌波村と称していたが、延宝5年(1677)に藩命により再び涌波新村と改められた。『日本歴史地名大系 17 石川県 石川県の地名』が出典としている『加賀志徴 下編』(11824805)には、p.281「下小立野」の項に「加賀郡涌波村より與兵衛・九兵衛・善左衛門・九郎兵衛・加兵衛・次郎兵衛・宗兵衛〆七人」と記されていた。なお、『加賀志徴』の引用元である『改作所旧 ...
芭蕉一行は7月14日に高岡に宿泊、7月15日から金沢に宿泊している。ルートについては、『奥の細道』や『曽良旅日記』を取り上げた資料に記載されている。以下に当館所蔵のもののうち、行程が比較的わかりやすいものを掲げる。『おくのほそ道探訪事典』(113241784)p.569~626『旅あるき「奥の細道」を読む 4 北陸路』(112546933)p.33~78『芭蕉はどんな旅をしたのか』(112137010)p.375~404『「曽良旅日記」を読む』(113310175)巻末に芭蕉の宿泊地が表にまとめられている。『加賀の芭蕉』(118603358)『おくのほそ道 芭蕉が歩いた北陸』(118522035)小松以南のルートは『新修小松市史 10 図説こまつの歴史』(109127596)p.101の地図に記載されている。『北陸街道紀行』(118522053)においても、芭蕉についての言及あり。芭蕉の足跡についてのパンフレット『松尾芭蕉と城 ...
【明治の金沢の二俣の写真について】 明治前半(明治28年以前)の金沢市の二俣地区の写真、なければ文章など書かれているものはないか。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:32:57)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:32:57)
明治28年以前の写真が載っている本は確認されなかった。『医王 医王山校百周年記念誌』(119565780)に二俣地区の写真がいくつか収められているが、いつ撮影されたものかは記されていない。『石川百年』(11826689)等、郷土の古写真を収録した資料にも明治の二俣の写真は確認されず。明治の二俣の地誌については、地名辞典の他に、以下の資料に記載がある。『山の民物語』(118419580)p.220~231同書では、『加賀河北の史的文化と地的景観』(118405164)の記述を引用している。『金沢市二俣町』(119458510)p.1~9「二俣町の概要」二俣は和紙の産地であるので、紙関係(和紙、加賀奉書)の資料においても記述が散見される。『石川県の伝統産業』(119549777)p.265~296「石川の和紙」
喜多家は加賀藩の十村役を勤めた家であり、能登国北川尻村に居を構えていた。現在も居宅は喜多家住宅として現存しており、国の重要文化財指定を受けている。『能登国喜多家』(118576798)は喜多家と住宅及び収蔵品についてまとめられている図説である。p.43嘉永6年(1853)藩主斉泰の能登巡見の際に本陣役を命ぜられた旨が記されている。『重要文化財喜多家住宅主屋・表門・道具倉・味噌倉保存修理工事報告書』(118602904)p.4~8に喜多家の沿革がまとめられている。藩主宿泊についてはp.8に記されている。『喜多家文書目録』(119536545)にも、藩主の能登巡見について記されている。『押水町史』(119563471)p.195に喜多家に関する記述があるが、藩主との関係には言及していない。『図説押水のあゆみ』(119742454)にも喜多家と藩主との関係については ...
execution time : 0.304 sec