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参考資料③を利用者へお渡しした回答プロセス:知人から苗をもらったので、苗からの栽培方法と利用方法が知りたいとのことで来館された。館内の6類の棚をブラウジング。ベリー類の資料に名前は出てくるが、栽培方法・利用方法まで詳しく載っている資料はなかった。レファ協の過去事例を検索。2件の事例を確認した(参考資料①・②)。過去事例の中で、雑誌「現代農業」に記事があるという情報を得て、当館で契約しているルーラル電子図書館で確認。少しではあるが、苗を定植する時期や、収穫時期などの記載を確認(参考資料③)。参考資料:①ガーデンハックルベリーについて書かれた本を読みたい。(富山市立図書館), (https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000232775)参考資料:②ハックルベリーの育て方について知りた ...
How an ex-Goldman banker built a $10bn private credit ‘whale’ — and now may sell it
from UK homepage (2024/10/24 13:00:57)
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After years of preparation, HPS is on the verge of either a deal or an IPO
『写真でみる京都100年』【1100349719ほか】p254に「平安神宮大鳥居 柱の内部」写真あり(内部全体ではなく下から上部を見上げるアングルで、上にのぼるはしご等が写っている)。回答プロセス:「岡崎コンシェルジュ」のサイトに「内部点検用ドア(平安神宮大鳥居)」というページがあり、当該資料が次のように紹介されていた。“…なお、気になる中の様子は『写真で見る京都100年』(1984年/京都新聞社)収録の写真で知ることができます。岡崎の京都府立図書館1F京都本コーナー、開架にて。”https://kyoto-okazaki.jp/spot/2020/03/21870/ [2024.10.19確認]その他、平安神宮に関する以下の資料を見たが、鳥居内部の写真が掲載されているものは見当たらなかった。『平安神宮百年史 本文編』【1101964557】p339-342「大鳥居の建設」には「柱は円筒形中空 ...
一条天皇が詠んだ「露の身の 草の宿りに 君をおきて 塵を出でぬる ことをこそ思へ」という辞世の和歌の出典(掲載資料)を知りたい。(京都府立図書館)
from レファレンス協同データベース (2024/10/24 12:02:26)
from レファレンス協同データベース (2024/10/24 12:02:26)
『御堂関白記』寛弘八年六月二十一日に出てくる。〈資料1〉『御堂関白記全註釈 寛弘8年』【1108802537】p92に本文、p95に読み下し文、p106に註釈が掲載。回答プロセス:和歌に関する資料は質問者自身がすでに調べられたということだったので、一条天皇に関する資料から手がかりを探した。以下の資料2、3に『御堂関白記』の寛弘八年六月二十一日に載っていることが書かれている。〈資料2〉『一条天皇(人物叢書 新装版)』【1108157791】p224~225「一条天皇辞世歌」(なお、異同はあるが『権記』『栄花物語』『古事談』『新古今和歌集』にも収められている、とあり。)〈資料3〉『源氏物語の時代 一条天皇と后たちのものがたり』【1108412899ほか】p258-260「出家と詠歌」当館システムで改めて「御堂関白記」を検索し、〈資料1〉を提供した。 ...
姜信子編『死ぬふりだけでやめとけや 谺雄二詩文集』(みすず書房、2014年)p130「闘う文学、闘わない文学」→「塔和子? いまひとつだったねぇ。塔和子は闘わない詩、だから国賠訴訟でも原告には彼女は入らなかった。」参考資料:谺雄二 著 , 姜信子 編. 死ぬふりだけでやめとけや : 谺雄二詩文集. みすず書房, 2014.https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I025329029, 978-4-622-07830-2
姜信子氏の講演会「千年先まで言葉を届けるために」で谺雄二氏の言葉「文学が癒しだったら、そんなのとっくにやめてるさ、いのちの開発、それが文学だと思うんだよ。」という言葉(おそらく姜氏が谺氏から口頭で直接聞いた)が紹介されているが、文献で似たようなことを書いているものはないか(国立ハンセン病資料館図書室)
from レファレンス協同データベース (2024/10/24 10:54:37)
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姜信子編『死ぬふりだけでやめとけや 谺雄二詩文集』(みすず書房、2014年)p130「闘う文学、闘わない文学」→「戦前の療養所の、いわゆる「癒しとしての文学」なんて、「癒し」なんて、まったく人を馬鹿にしてるね。戦後もそんなこと言っている輩は実につまらない。癒しだったら、文学なんて、とっくにやめてるよ。/思うに、文学というのは、みずからの命を開発することなんじゃないか。物事はしなきゃ、開かない。進みもしない。命だってじっとしてりゃ、鎮座ましまして、終わっちまう。そういうわけにはいかないだろ。開発していかなきゃ。命の開発、それが文学だと思うんだよね。」参考資料:谺雄二 著 , 姜信子 編. 死ぬふりだけでやめとけや : 谺雄二詩文集. みすず書房, 2014.https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I025329029, 978 ...
1.兵庫県小野市来住町(きしちょう)にある来住城跡の歴史について知りたい。2.下来住町にある鍬渓神社と来住城に関係はあったのか。3.喜始(きし)という苗字の由来について知りたい。(小野市立図書館)
from レファレンス協同データベース (2024/10/24 10:52:26)
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1.来住城跡の歴史について①『加東郡誌』p.842~843 「播磨鑑」「播州古城軍記」「播陽古城記」「来住校報告」からの引用によると、 ・来住城の領主は清和源氏を先祖に持つ来住安藝守景政、その嫡子景利であり、三木城に籠った。 ・子孫の来住文右衛門の弟は源三郎といい、百姓だった。 ②『三木合戦』p.29 三木合戦で三木方の侍大将として来住を守備した景政が、戦火が静まった後、その軍図を菩提寺に奉納した。2.来住城と鍬渓神社との関係①『はりまおの 小野市拾遣』好古館/兵庫県立図書館所蔵 p.57~58 来住領主の源唯支が鍬渓神社の神事を再興し、子孫代々受け継ぐ。②『加東郡誌』p.566~568 領主赤松範景、来住惟友、来住景政、松平清匡、その他の武将は鍬渓神社への崇敬が厚かった。3.喜始という苗字の由来①『小野市絵図 ...
現在、野生下でトキ(鳥類)が生息しているのは、日本国内では新潟県佐渡市のみだが、かつては日本国内のほぼ全域、および東アジア一帯に広く分布しており北海道でも函館等南部が生息域だったようだ。ついては、1 北海道においては、トキの生息記録がどの様であるか時期や地域など知りたい。2 具体的な記録以外に、トキに関連する民話や民間伝承などあれば知りたい。3 北海道におけるトキの伝統的呼称を、アイヌ語を含め、その由来等もあわせて知りたい。●その質問の出典や情報源、調査済み事項など令和5年度佐渡市「トキガイド
from レファレンス協同データベース (2024/10/24 10:40:44)
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1 北海道においては、トキの生息記録がどの様であるか蔵書検索、雑誌記事検索でヒットなし。googleで「北海道」「朱鷺」で検索 →「トキの野生復帰のための生息環境の整備方策策定調査報告書」がヒット平成17年3月 林野庁https://www.rinya.maff.go.jp/j/kokuyu_rinya/kakusyu_siryo/pdf/00417_0_h16.pdfその中の「1-2近世におけるトキの分布と生息状況」に道南で朱鷺の生息があったことが記されている。その参考文献を調査し、以下の資料に記述あり。・安田健 「トキの文献(その2)」 →当館所蔵なし。NDLデジタルコレクション送信サービス限定で閲覧可。トキの文献-2-(資料) / 安田健/p8~27応用鳥学研究会 編『応用鳥学集報』4(1),山階鳥類研究所,1984-03. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2300380 (参照 2024-05-10)北海道については以下の文献 ...
新選組の永倉新八が話題になっており、『小樽新聞』の連載が「新選組顛末記」としてまとまっている。以下について知りたい。1 加藤眠柳およびインタビューの記者について。2 大正2年3月17日より6月までの連載であることは確認できたが、初回と最終回の掲載日。●その質問の出典や情報源、調査済み事項などwikipediaと新選組顛末記の販売のサイトの解説。加藤眠柳については、黒岩比佐子氏の「パンとペン」。(北海道立図書館)
from レファレンス協同データベース (2024/10/24 10:38:09)
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1 『小樽新聞』の連載に関わる加藤眠柳とインタビューの記者について『子孫が語る永倉新八』(回答資料1)p.20に以下の記述あり。 →この取材を主に担当したのは、社会部記者の吉島力であり、社会部長の加藤眠柳が連載原稿をまとめた(時には眠柳も直接取材したこともあったはずであるが)。二人は、現在の雑誌取材におけるデータマンとアンカーマンという役割分担をしていたといっていいだろう。以降、加藤眠柳について書かれている。吉島力については、p.29~31で書かれている。それによると、明治42年に小樽新聞入社、連載終了後に小樽新聞を退社。大正2年北海タイムス社入社。札幌本社に在籍後、しばらくして釧路支局に異動。戦時中まで在籍していたらしい。また、p.204で以下の記述あり。 →その当時の同〔小樽新聞〕新 ...
千歳市出身の畔柳二美(クロヤナギ フミ)という作家について調べている。特に、佐多稲子と交流があったようなので、そのあたりのことを知りたい。(北海道立図書館)
from レファレンス協同データベース (2024/10/24 10:30:55)
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畔柳二美の略歴については『北海道文学全集 第17巻 女流の開顕』(回答資料2)、『北海道文学大事典』(回答資料1)に掲載があった。佐多稲子との交流については、『文学者の手紙 7 佐多稲子』(回答資料4)に佐多稲子と畔柳二美の往復書簡が掲載されているほか、「畔柳二美・佐多稲子往復書簡をめぐって」という中野武彦による解説がある。『佐多稲子全集 第18巻 エッセイ』(回答資料5)の64p~「折り折りの人」という章に「太田洋子・畔柳二美のこと」という文章が掲載されている。また、新日本文学会の事務・編集に携わった小沢信男による追悼録『通り過ぎた人々』(回答資料3)には畔柳二美の章があり、佐多稲子らとの交流についても触れられている。この追悼録によると、畔柳二美の晩年と闘病について、20年来のパー ...
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