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「加賀藩 天領」「十八カ村」といったキーワードで資料検索を行い、以下の資料が該当した。『故郷乃研究 創刊号』(119954886)p.34-38「白山市の元天領の変遷」『市史かなざわ 第6号』(119701442)p.97-105「正保・元禄国絵図にみる白山麓公領十八カ村の国郡帰属」『新修小松市史 資料編8 幕領』(109080506)近世に幕府領だった白山麓十八カ村に関する史・資料が収録されている。『越前加賀白山麓十八ヶ村取次元 山岸十郎右衛門家文書目録』(119886525)石川県立歴史博物館/編 …巻末には白山麓天領の概要が簡単に記されている。その他、以下の資料が該当すると思われる。『小松の生いたち』(119872083)p.295「天領の農民」『白峰村史 上巻』(119562590)p.635「天領時代」『新修小松市史 10 図説こまつの歴史』(109127596)p.86-87「白山麓十八か村の幕領化と西谷の ...
【旧鴻池銀行金沢支店について】 ①旧石浦町にあったという、鴻池銀行金沢支店のあった場所や年代を知りたい。②鴻池銀行金沢支店で支店長を務めた草鹿丁卯次郎について書かれている資料を見たい。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:32:46)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:32:46)
①について明治35年刊行の『金沢新繁昌記』(118588055)巻頭の写真の中に鴻池銀行金沢支店のものあり。所在地の記載なし。大正元年の『金沢市要覧』(118575280)p.15に「鴻池銀行金澤支店(合名)石浦町」とある。『金沢諸会社職員名簿 昭和4年』(119503061)に鴻池銀行の記載なし。『石川県銀行誌』(11801951)p.195~200の「昭和八年調石川県下銀行一覧」には鴻池銀行の記載なし。国立国会図書館デジタルコレクションで、大正5年の『紳士縉商北陸商工業名鑑』を見ると、「石浦町一一 鴻池銀行金澤支店」と書かれており、所在地が石浦町11番地であったことが確認できる。【URL】https://dl.ndl.go.jp/pid/923535/1/1石浦町11番地がどこにあたるかを確認する。『金沢市住居表示新旧対照表 84-3』(11916582)をもとに、現町名と地番を確認。石浦町11番地は住居表示導入 ...
【加賀八家本多家の系図について】 以下の家について、系図若しくは由緒帳がないか教えてほしい。①:加賀八家の本多家②:①の分家③:本多家の陪臣④:政重の子孫で旗本になった家で、寛政期以降の系図の載っているもの⑤:①~④について、当主の兄弟姉妹まで載っているもの、娘の名前が記されているもの(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:32:46)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:32:46)
全てがまとまって記載されている資料はない。各資料をつなげて見る必要がある。当館所蔵資料及び当館近世史料館所蔵の史料を確認し、見つかったものは以下の通りである。①、②:『石川県史資料 近世篇8 諸士系譜』(109084069)において、天保期までの本家・分家を含めた系図を見ることができる。ただし、天保以降については、その他の史資料で補完する必要がある。本家及び分家については、近世史料館に明治初年書上げの由緒帳である「先祖由緒并一類附帳」が現存している。③:系図は確認されないため、人名をもとに由緒帳をたどることになる。『本多家家臣先祖由緒并一類附帳』(119349444)で、家臣名の一部の把握が可能。近世前期の侍帳であれば加越能文庫にあり。加越能文庫の「本多家来由緒帳」(近世史料館 特16.31-180)は、近 ...
【加賀藩の人口について】 江戸時代の加賀藩の人口についてわかる資料はないか。できれば人口動態が知りたい。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:32:46)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:32:46)
『封建社会崩壊過程の研究』(118565088)p.55-59・寛文7年の人口調査について。典拠となった史料に「温故集録 18」がある。→『温故集録 2』(119877366)に「温故集録 巻十八」が収録されている。p.229-230「金沢町地等人員・戸数御穿鑿(一)」、p.230-232「金沢町数人員・戸数等御穿鑿(二)」・享保6年の15歳以上の領内人口調査について。典拠となった史料は「今津甚四郎書出侯人数一巻」。『加賀藩史料 第6編』(11801629)p.253-256「是歳。加賀藩庶民十五歳以上のものの数を調査す。」加越能三ヶ国の人数が記されている。『金沢市史 資料編6 近世4』(119705020)p.23-24「町方人口と人の移動」寛文4(1664)年、寛文7(1667)年、宝永7(1710)年、天保9(1838)年、安政4(1857)年、明治2(1869)年の町方人口の表が掲載されている。元の史料は以下のページに記載されている。p.623-624 ...
【賀州三か寺について】 富樫氏は植泰(たねやす)が賀州三か寺に味方したために滅亡したそうだが、その賀州三か寺とは具体的にどの寺か。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:32:45)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:32:45)
賀州三か寺とは、若松本泉寺・波佐谷松岡寺・山田光教寺のことである。以下の資料を参照した。『地方別・日本の名族 7 北陸編』(11826647)p.228「植泰の治政」「享禄四年(1531)加賀の一向一揆が、永正年間に越前より亡命した超勝寺・本覚寺方(大一揆ともいう)と賀州三か寺方(蓮如の三子の寺院、若松本泉寺・波佐谷松岡寺・山田光教寺。小一揆ともいう)に分れ、対立した。」「守護勢力と協調路線をとっていた三か寺方が敗北し、(中略)植泰も三か寺方に加担していたため、国長衆数百人とともに牢人した。」『富樫氏の歴史と伝承』(119970941)p.30「植泰の活躍と退去」「一向一揆も植泰を推戴していることは間違いなく、指導者賀州三カ寺(若松本願寺・波佐谷松岡寺・山田光教寺)とも良好な関係」p.108「富樫氏と高尾城関係年表」「享禄四(15 ...
【富樫村(とがしむら)について】 明治22年の市町村制施行で富樫村が誕生したが、その際に合併した村に寺地村(てらじむら)は含まれているか。事前の調べでは、地黄煎(じおうせん)、円光寺、山科(やましな)、高尾、窪、清瀬、坪野、倉ヶ嶽、伏見新の9村だった。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:32:45)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:32:45)
結論としては、富樫村には寺地も含まれており、10村の合併で誕生した。『石川県史 第4編』(118587405)p.155-156「石川郡」「明治二十二年四月の改定に係る本郡の町村区画左の如く」とあり、富樫村の項目には「地黄煎 寺地 伏見新 圓光寺 山科 窪 高尾 清瀬 坪野 倉ヶ嶽」の10村が記載されている。『石川県石川郡誌』(11824573)p.1「区割」、p.1024「富樫村」『金沢・町物語』(11803160)p.328「富樫地区」『金沢市校下誌 南部地区編』(109164230)p.65「富樫校下」
【金沢城の石川門について】 有沢永貞「慶長金沢城図」に見える、石川門二の門が現状と反対側に開くようになっているのはなぜか。なぜ反対にしたのか。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:32:45)
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『よみがえる金沢城 1』(119950125)p41に「慶長金沢城図」が記載されている。その説明書きとして、「(前略)石川門の二の門が現状と反対側に開き、河北門枡形が河北坂上ではなく坂下にある点など、寛永以前の初期金沢城の様相を示す面がある。」とあり、この記載を見ての質問であった。『金沢城史料叢書11 金沢城の三御門』(109121592)p11【石川門の歴史】に「慶長後半期の景観とされる「慶長金沢城図」に描かれた石川門は、石川土橋から一の門に入ったあと左に折れ鶴ノ丸に誘導する枡形門であるが、現状は右に折れ三ノ丸に誘導される枡形門である」と、変化について詳しい記載がある。理由については同項目に、「明確ではないが、寛永8年(1631)大火以後の絵図はすべて現存の姿に描かれるので、寛永大火後の再建で変化したとみるのが ...
【金沢城二ノ丸御殿の面積について】 新聞に、金沢城の二ノ丸御殿の建坪が3200坪との記述があったが、本当か。裏付ける資料を見たい。(金沢市図書館)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:32:45)
from レファレンス協同データベース (2025/1/10 0:32:45)
質問者が目にした新聞は、「北國新聞」平成30年8月25日付朝刊の記事であると思われる。記事には「金沢城では1631(寛永8)年に本丸が燃えてから、二の丸御殿が藩主の執務と居住の場となった。建坪3200坪(約1万600平方メートル)と城内最大規模だったが、…」と記されている。金沢城を文献・発掘により調査している、石川県金沢城調査研究所編集の資料を確認。『よみがえる金沢城 1』(119950125)p.89に宝暦5年(宝暦大火で焼失前)の金沢城の建物数の表が記載されている(同表は『金沢市史 資料編3』をもとに作成したものである)。同表によると、「二ノ丸」は1,913坪となっている。p.105に文化期再建の二ノ丸の記述がある。「文化度に再建された二ノ丸御殿の建坪は3225坪ほどで」と記されている。『よみがえる金沢城 2』(118512478)p.22に ...
『人物レファレンス事典 古代・中世・近世編2』(112930390)p.1211 「佐野源左衛門 生没年不詳 鎌倉時代の武士。」と記載されている。収録されている事典は、『講談社日本人名大辞典』『コンサイス日本人名事典』『日本史人物辞典』と、記載されておりすべて玉川に所蔵あり。『講談社日本人名大辞典』(112321755)p.879 「佐野源左衛門 謡曲「鉢木」に登場する武士。上野(群馬県)佐野の人。鎌倉幕府の元執権北条時頼が僧となって諸国行脚をする途中、大雪で一夜の宿をたのんだとき、たいせつな鉢の木をたいてもてなし、鎌倉に対する忠節をかたる。のち招集に応じて鎌倉にかけつけた際、時頼に賞され旧領をかえされたという。名は常世。」と記載されている。『コンサイス日本人名事典』(112512541)p.617 「佐野源左衛門 生没年不詳。鎌倉中期 ...
加賀獅子舞の特徴である獅子退治を模した棒振り演舞に流派が存在する。主な流派には、「土方流」「半兵衛流」がある。『金沢市史 資料編14 民俗』(119748725)p.463-468「棒振りの流派」『加賀・能登の民俗 小倉学著作集 第2巻 民俗芸能』(119880460)p.115-281に加賀獅子舞についての著作が収録されている。p.121「棒振りの流棒」ほか、棒振りの流派について記載されている箇所が多くある。『金沢市文化財紀要 48 加賀獅子』(109077304)p.29「金沢の獅子頭」地区ごとの獅子頭を一覧表で見ることができ、棒振の流派名も記載されている。p.159「加賀獅子舞の棒振り考-半兵衛流とその伝播を中心に-」(小倉学・著) ←『加能民俗研究 第6号』(119796633)p.1 掲載論文に同じ。p.180「加賀の獅子舞考-金沢の西南部と石川平野の実態-」(小倉学・著) ←『加能民 ...
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