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五稜郭の戦いの終結後、松前藩は家臣中の戦争非協力者、領民での徳川脱走軍への協力者、徳川脱走軍の潜伏者を捜索、逮捕して罰したが、捜索や逮捕の時の細かな様子、捕まった兵士の名前や具体的な役職、刑罰など詳しく載っている文献・書籍を知りたい。●その質問の出典や情報源、調査済み事項など『福島町史』第二巻通説編(上) 第四編第三章第六節(北海道立図書館)
from レファレンス協同データベース (2024/10/24 10:28:40)
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『北海道史』(参考資料1~2)には詳細な記述なし。『松前町史 通説編 第1巻 下』(回答資料1)に調査済み資料の『福島町史 第2巻 通説編』(参考資料3)より詳細な記述あり。 →4月17日の福山城回復の時点から探索が始められ、5月に本格的逮捕に踏み切った。5月6月の2か月の逮捕者は福山城下で118名、江差で140名。そのうち徳川脱走軍の潜伏者は144名。どんな刑になったかの集計表「第5-33表 松前藩戦時行刑一覧表」あり。『館藩白洲目録』に逮捕者の判決が詳しいとある。『松前町史 通説編 第1巻 下』及び『福島町史 第2巻』の該当記述の典拠となっている資料を調査。→3点とも国書総目録になし。松前町史の史料編になし。・『松前藩福山日記』 →道立文書館の私文書検索で「福山日記」で検索。ヒットあり。・『館藩白洲目録』 雑 ...
「樺太」という地名について、カラフトであるのになぜ「樺」太と記述するのか。「カバフト」と呼ぶ例もあるようだが、旧来あの場所は「カラフト」であり、カバフトは「樺」の文字に引きずられたと思われる。ならばなぜ「樺」という文字を採用したのか知りたい。1869年(明治2年)に北海道と名称変更された折、外務大丞丸山作楽の進言により樺太となった、との記述を見受けたが、具体的な過程を知りたい。●その質問の出典や情報源、調査済み事項など閲覧済資料・『南樺太』西村いわお著(1994年発行)・『校訂蝦夷日誌二編
from レファレンス協同データベース (2024/10/24 10:27:18)
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『日本歴史地名大系 1 北海道の地名』の「サハリン島」の項 →「古くから「からと島」もしくは「からふと島」とよんでおり、「唐太」という漢字を当てることがあったが、それはカラヒト(唐人)の訛音だろうという(北夷分界夜話)、「樺太」という当て字は明治2年(1869年)に蝦夷地探検家の松浦武四郎が与えたものである。」とある。『大日本地名辞書 第8巻 増補版』の「樺太」の項 →「岡本氏(前開拓判官)樺太探検日記曰く、明治元年8月の比、予は松浦武四郎と(しばしば)論談したりしに、嘗、柯太の号を定むるに至り、松浦は樺太とせんと云ふ。」と2名の主張が分かれていたことが記述されている。岡本氏は「柯は土人の旧名にして、作の義なり、太は大に間あらしむる也、此島元来南島(北海道)と同一なりしを、神の ...
以下の資料を探している。1 北海道魚介類行商取締条例の条文2 北海道の行商に関わる許認可名簿や具体的な資料3 道内の通商自治組合のような行商団体を詳しく記述した資料4 道内のガンガン部隊に関する資料●その質問の出典や情報源、調査済み事項など山本志乃氏の論文「なりわいとしての「小商い」-市と行商にみる地域的流通の意義と可能性-」を見たり行商鑑札についてネットで検索したが、米子鉄道管理局に鑑札の制度があったこと、ヤフオクの履歴等から函館に行商団体のバッチが存在した事など断片的な事しかわからなかっ
from レファレンス協同データベース (2024/10/24 10:25:24)
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1 蔵書検索、雑誌記事検索で「北海道魚介類行商取締条例」で検索 →ヒットなし国立国会図書館デジタルで検索。 →『北海道議会史 第5巻』(回答資料1)がヒット。昭和26年第1回定例北海道議会(昭和26年2月26日~3月23日)の議案に「北海道魚介類行商取締条例」あり。『北海道公報目録 昭和26年1月~12月』で「北海道魚介類行商取締条例」の公布を調査。 →北海道条例第29号昭和26年4月1日公布昭和26年4月1日号外p.1~2に掲載。2 「行商」で所蔵調査及び雑誌記事検索 →ヒットなし3、4 国立国会図書館サーチ及びgoogle書籍検索で「ガンガン部隊」を検索。以下の資料に記述あり。『新北海道史 第6巻 通説』(回答資料4:p.83~84) →その中で、組合設立の声が高まり、昭和24年4月室蘭行商組合連合会が道内で最初に発足し、そのご各地に行商 ...
北海道の米価について。1979年、政府買入価格に銘柄間格差が導入されたが、北海道はほとんどが最低ランクだったらしい。そのことがわかる文献等を探している。(北海道立図書館)
from レファレンス協同データベース (2024/10/24 10:00:02)
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「銘柄間格差」「北海道米」でインターネットを検索。 →J-STAGE:「品質格差導入米価と北海道の稲作経営」(山田定市著)p.25の昭和54年の米価に関する部分で以下の記述あり。北海道産米は5類に属し、直接の政府売渡価格においてもこれまでにない格差をつけられるわけであるが、実際の影響は価格差につきるものではない。5類にランクされるということは、事実上、規格商品としての米として認定されないということであり、事実上、米穀市場から道産米が排除される、ということにほかならない。J-STAGE:「品質格差導入米価と北海道の稲作経営」(山田定市著)https://www.jstage.jst.go.jp/article/amsjj/10/0/10_KJ00009927224/_pdf/-char/ja(最終アクセス日:2024/02/20)昭和54年の北海道農業の動向について、北海道年鑑他、当時の資料を調査。以下の資 ...
千島列島、シュムシュ(占守)島のカシワラ(柏原)湾、パラムシル(幌筵)島のスリバチ(擂鉢)湾のあたりに昭和17,18年頃に鮭やマスの加工工場があったはずだが、それがわかる地図があれば見たい。(北海道立図書館)
from レファレンス協同データベース (2024/10/24 9:54:04)
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千島列島については所蔵している地図がほとんどないため、主に、千島列島に関する歴史、写真集などの資料、千島・北千島の漁業、または北洋におけるサケマス漁業に関する資料を中心に確認した。工場の位置関係などがわかる地図や写真は見つからなかったが、柏原湾、および擂鉢湾に缶詰工場がある様子、と思われる風景写真は・『経済上より見たる新興北千島漁業(盛漁期に於ける幌筵島擂鉢湾の全景)』(回答資料2)・『懐かしの千島(摺鉢湾の鮭鱒工場)(柏原湾の缶詰工場)』(回答資料1) に数点みつかった。そのほかには昭和8年~12年頃まで、どの会社が北千島のどこに工場をもっていたか、という一覧が・『奪われた北千島その漁業史』(回答資料5)・『新興北千島漁業の経済調査』(回答資料3)・『北千島の水産業 ...
Musk’s $1mn-a-day voter giveaway could violate US law, DoJ warns
from UK homepage (2024/10/24 9:50:50)
from UK homepage (2024/10/24 9:50:50)
Billionaire Trump backer has targeted swing states with contest ahead of presidential election
北海道でとれる水産物の漁獲量のデータについて。魚種別・年ごとの漁獲量の推移データが書かれているものはあるか。(北海道立図書館)
from レファレンス協同データベース (2024/10/24 9:34:58)
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昭和33年(1958年)以降の漁獲量の推移は北海道水産林務部webページで公開。それ以前の年については、年ごとの漁獲量はわかるものの、推移をまとめたものは見つけることができず。〇昭和33年以降の漁獲量魚種別・年ごとの漁獲量の推移データは、「北海道水産現勢」として、北海道水産林務部のwebページで公開。https://www.pref.hokkaido.lg.jp/sr/sum/03kanrig/sui-toukei/suitoukei.html(水産統計(北海道水産現勢))「累年」表に、昭和33年以降の全道の生産量等が、魚種別にまとめられている。同ページの「確報」には、年ごとのより詳細な調査結果がまとめられており、「マリンネットデータベース検索」では、平成3年(1991年)以降のデータの検索・集計を行うことができる。北海道農政事務所が公開する「グラフでみる北海道の漁業」(令和2年9月)では ...
まず新聞の調査箇所を特定するために、大正13年8月の第七師団の演習というものがいつ、どこで行われたかについて調査した。『新旭川市史 第8巻 旭川市史編集会議∥編集』の「2 第七師団関係記録 (1)師団歴史第弐号」によると大正13年の項に「八月一六日、十七日ノ両日近文台ニ於テ飛行機連合演習ヲ実施ス」とあったため、この日付に絞って北海道新聞を確認。『北海タイムス』(北海道新聞前紙)の大正13年8月16,7日の前後数日分を確認し、この時の第七師団の演習についての記事(「第七師団、演習、飛行機、近文」などの単語が登場する記事)として以下3点があった。・大正13年8月13日(水)9面、「飛行機連合演習は16,7日」 ※演習の実施予定・内容を知らせる記事・大正13年8月16日(土)5面、「近文台に於る飛行隊の基本演 ...
北海道開拓使や北海道移民政策により、現広島県北広島町から現北海道北広島市に移り住んだ方の人数を調べたい。(明治21年時点の旧村名)溝口村、高野村、米沢村、大暮村、移原村、小原村、大利原村、南門原村、奥原村、才乙村、草安村、奥中原村、刈屋形村、土橋村、細見村、川小田村、東八幡原村、西八幡原村、政所村、中祖村、雲耕村、宮地村、橋山村、荒神原村、大塚村、大朝村、筏津村、田原村、新庄村、宮迫村、岩戸村、石井谷村、今田村、有田村、後有田村、古保利村、寺原村、春木村、有間村、南方村、木次村、壬生村、川東村、川西
from レファレンス協同データベース (2024/10/24 9:29:21)
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調査済み資料以外の北広島市史を調査→情報なし。移住、開拓関係(分類:334.5)の棚をブラウジング→北広島に関するもので、未調査の資料なし。広島県立図書館からの情報より、雑誌『郷土研究ひろしま』及び『郷土研究北ひろしま』から、関連のある資料を調査。以下に移住に関する資料あり。 →『郷土研究ひろしま』通巻8号 (回答資料1) p.51、p.149、p.202、p.264 『郷土研究北ひろしま』 通巻14号 (回答資料2) 「付録 明治十九年石狩国札幌郡月寒村字輪厚の移住者戸籍副本」p.105~117『郷土研究北ひろしま』 通巻16号(回答資料3) 「明治16年7月 移住民戸口明細簿」p.39この資料の基になっているのが下記の「移住民戸口明細簿 甲号 明治十六年七月」(道立文書館所蔵)『北海道移住調査研究レポート』(参考資料2)表18 明治17年広 ...
「子」の文字の使用について。人名では川村カ子(ネ)ト、地名では、例えば宗谷郡ペン子(ネ)シリ村など、カタカナの中に漢字「子」(ネ)が利用されているがなぜか。一定の使用法あるいは決まりがあるのか、またアイヌ語との絡みがあるのか知りたい。(北海道立図書館)
from レファレンス協同データベース (2024/10/24 9:25:17)
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片仮名の「ネ」を「子」と表記することは、アイヌ語に関する言葉に限らず、明治33年(1900年)以前ではよく見られたようだ。『日本語学研究事典』「片仮名」の【解説】(p382)(回答資料1)や『かなの成り立ち事典』「片仮名概説」(p28)(回答資料2)には、片仮名の字体について、明治33年施行の小学校令施行規則により仮名の字体が現在の形に統一されるまで「子(ネ)」のような異体字表記が広く使われていたことが記されている。「子(ネ)」の用例として、日本初の和英辞典として知られる、J.C.ヘボン編纂の『和英語林集成』(慶応3年(1867年)刊行)でも、「ネ」に「子」が用いられていることが確認できる。(下記のwebページで、当時刊行された『和英語林集成』の画像を閲覧することができる。)https://mgda.meijigakuin.ac.jp/waei/book_image/37?era=05(明 ...
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